第7章 生きている限り、彼の手のひらから逃げられない
「国政」
橘礼子は、その決め方にどうしても納得できなかった。
「結衣がどの部屋に住んだって同じじゃない。でも晴美は体が弱いのよ。冷えにも弱いし、あの部屋は日当たりがいちばんいいのに……」
「体が弱いって、まるで私が丈夫みたいな言い方ね」
橘結衣は鼻で笑った。
「私はあれだけ長いこと苦労してきたの。少しくらい、いい思いしたっていいでしょ」
橘由樹が堪えきれずに口を挟む。
「晴美とお前を一緒にするなよ。晴美の体のほうがずっと大事なんだ!」
結衣の視線が、淡々と由樹をなぞった。
「比べものにならないのは、いったいどっち?」
そのまま唇を吊り上げる。
「お父さんも言ったよね。私は実の娘なんでしょ。あの子はただの偽物よ。何の資格があって私と張り合うの?」
そう言って、橘国政へ振り向く。
「そうでしょ、お父さん?」
橘国政の顔色が、どす黒く沈んだ。
分かっていた。
今日この部屋を替えなければ、結衣は絶対に引き下がらない。
「これで決まりだ」
橘国政は手をひとつ振った。
「晴美は部屋を出ろ。その部屋は結衣に使わせる」
橘晴美はひどく傷ついたような顔になり、あふれた涙がいっそう勢いを増して頬を伝った。
――どうして橘結衣は、わざわざ自分のものを奪いたがるの。
――いっそ、死んでしまえばいいのに。
娘の悔しさをこらえる表情に気づき、橘礼子は胸を締めつけられた。
だからこそ、必死に宥める。
「晴美、もう泣かないで。別のお部屋を選びなさい。ママがいちばん腕のいいデザイナーを呼んで、あなたの好きなように整えてもらうから。きっと前の部屋より素敵になるわ」
晴美は何度も深く息を吸い、手の甲で涙を拭った。
「お母さん、私は大丈夫……」
かすれた声で、健気に微笑もうとする。
「お姉ちゃんに譲る。お姉ちゃんが気に入ったなら、それでいいの」
礼子はその物分かりの良さに安堵しながらも、同時にたまらなく胸が痛んだ。
だが次の瞬間。
「だったら最初からそう言えば?」
結衣がいきなり、うんざりしたように怒鳴りつけた。
「今さらいい子ぶって何になるの。後から出てきて綺麗ごと言うな!」
思いのほか大きな声が部屋じゅうに響き、そこにいた全員が一瞬で固まる。
橘礼子が我に返るまで、数秒かかった。
立ち去る結衣の背へ、指を突きつける。
「あなた……!」
だが返ったのは――。
バンッ!
耳を打つほど激しい音。
結衣は扉を叩きつけるように閉め、そのまま姿を消した。
橘礼子の顔がさっと曇る。
「怒りたいのはこっちよ。あの子、何を逆上してるの?」
橘由樹は拳をきつく握りしめた。
どうしてだ。
何もかも、まるで別人だ。
前の橘結衣は、こんなふうじゃなかったはずなのに。
——
その夜。
橘結衣は傷口の包帯を替え、自分のベッドへ腰を下ろした。
手にしているのは『レ・ミゼラブル』。
けれど、ページをめくる指先に集中はない。
もう一度戻ってきた今、誰かに取り入ろうなんて気はさらさらなかった。
今日の一件でよく分かった。
今の橘国政には、まだ父親としてのわずかな情が残っている。
あるいは、自分が戻ってきたばかりで、あの家にとって都合の悪い出来事がまだ起ききっていないだけか。
この先4年。
橘グループは坂を転げ落ちるように傾いていく。
そして追い詰められた末に、橘国政も橘礼子も、隠していた本性をむき出しにする。
橘礼子は贅沢と見栄に取り憑かれた女。
橘国政は利益のためなら、娘ひとり売ることすらためらわない男。
この家でまともな扱いを受けるには、自分に利用価値があるとあの夫婦に思わせるしかない。
それだけだ。
考えを整理していた、そのとき。
テーブルに置いたスマホが、ぶるぶると震え始めた。
結衣は本を伏せ、画面を見た。
見覚えのあるような番号。
その4桁を認めた瞬間、瞳がかすかに縮む。
記憶が一気に、死ぬ直前のあの夜まで引き戻された。
男は電話越しにこう言った。
――明日のお披露目パーティーには行くな
――南川春輝に嫁がされるくらいなら、俺に嫁げ
――……
結衣ははっとして、ベッドの上で身を起こした。
宮本景太――?
でも、おかしい。
前の人生のこの日、こんな電話はかかってこなかった。
そもそも今の自分は、まだ宮本茜と知り合ってすらいない。
まして宮本景太とは、会ったこともないはずだ。
訝しみながらも、結衣は通話を取った。
「もしもし?」
だが、向こうから返ってきたのは不気味な沈黙だけ。
結衣は眉を寄せ、もう一度呼びかける。
「もしもし? どちらさまですか」
その頃――都心にそびえる宮本グループ本社。
宮本景太は、床から天井まである窓の前に立っていた。
細身の長い影が、夜景を背に静かに伸びている。
その手には、スマホが強く握り締められていた。
受話口の向こうから、少女のやわらかな声が届く。
「もしもし? どちらさまですか」
悔恨と痛みに満ちていた男の目に、その声を聞いた瞬間だけ、かすかな熱が差した。
だがそれも、すぐに痕跡ごと消える。
宮本景太は、そのまま電話を切った。
――生きている。
それでいい。
生きてさえいれば、もう二度と逃がさない。
——
翌朝。
橘結衣は椅子にだらりと背を預け、足を組んでいた。
どこか投げやりで、気怠げで、世の中を小馬鹿にしたような姿勢。
使用人たちが箱を抱えて、彼女の前を何度も行き来している。
この部屋にあった橘晴美の衣類や私物が、次々と斜向かいの空き部屋へ運ばれていった。
晴美の新しい部屋も決して狭くはない。
さすがにここには及ばないが、不満を言うほどでもない。
「橘結衣、お前って本当に性格悪いな!」
橘由樹が眉を吊り上げ、結衣を睨みつけた。
「晴美はお前を本当の姉だと思ってるのに、お前はあいつをいじめてばっかりだ!」
「由樹兄さん、そんな言い方しないで」
橘晴美は沈んだ顔に無理やり笑みを浮かべる。
「もともと、ここはお姉ちゃんのものだもの」
その笑顔が、由樹にはひどく切なく見えた。
胸が苦く痛み、同時に結衣への苛立ちがいっそう募る。
彼は苛立ったまま目の前の箱をひとつ抱え上げ、結衣を見ようともせず部屋を出ていった。
晴美も荷物をまとめながら、ふと思い出したように振り返る。
にこやかな笑みを浮かべ、箱をひとつ抱えて結衣に見せた。
「お姉ちゃん、これ、私が選んでおいたの。お姉ちゃんが使えそうなものをまとめてみたから、よかったら全部使って」
結衣は中を見なくても、何が入っているのか分かっていた。
開封済みの化粧品。
何度か着たけれど合わなかった服。
それに、流行遅れのアクセサリー。
箱を抱えたまま立つ晴美を見つめ、結衣は少しだけ考えるように目を細めた。
「それ、全部あなたのお下がり?」
声音に起伏はない。
むしろ静かすぎるほど静かだった。
その平坦さがかえって不気味で、晴美の心臓がひとつ跳ねる。
彼女は慌てて言い添えた。
「お姉ちゃん、これ、みんなお母さんやお兄ちゃんたちにもらった大事なプレゼントなの。だから、無駄にしたくなくて」
母と兄たちにもらった贈り物。
なるほど、たっぷり愛情の詰まった箱というわけだ。
「いらない」
結衣は顔を背け、心底どうでもよさそうに言った。
「私はもう戻ってきたんだから、欲しいものくらい自分で手に入る。なんでわざわざ、あなたの中古なんか使わなきゃいけないの」
晴美の顔がぴくりと強張る。
その口ぶりは、まるで生まれながらに甘やかされてきた令嬢のようだった。
それが、妙に癪に障る。
「……そっか。お姉ちゃんがいらないなら、持っていくね」
晴美は箱を抱え直し、そのまま扉へ向かって歩き出した。
結衣の脇をすり抜ける、その一瞬。
晴美の目の底を、ひやりとした陰がよぎる。
「きゃっ――」
足を滑らせたように、晴美の体がぐらりと前へ傾いた。
結衣は眉をひそめ、反射的に手を伸ばす。
細い腰を抱き止め、そのまま引き戻した。
当然来るはずだった転倒は起きない。
代わりに、晴美の抱えていた段ボールだけがふわりと宙へ飛び、次の瞬間には床へ落ちた。
中身がばさばさと飛び出し、あたりに散乱する。
物音を聞きつけ、橘由樹が慌てて駆け込んでくる。
「どうした!? 何があった!」
彼の視線はまず、散らかった床を捉えた。
そして次に――。
橘晴美が、橘結衣の腕の中にもたれている。
橘由樹の思考が、一瞬真っ白になる。
ぽかんとしたまま二人を見つめ、ようやく絞り出した。
「お、お前ら……何してるんだ?」
